国崎(くざき)の伝統的なお祭り(元寇-1274年文永の役-の頃から始まったとされています)
海女の祖を祭る海士潜女神社の祭礼。
国崎の谷を挟んで、海間谷(かいまだに)地区と里谷地区に別れ、2隻の船に青年男子が5人ずつ乗って船を漕ぐのを競い合い、
その勝敗によって豊漁を占います。里谷が勝てばボラが、海間台が勝てばイワシが多く捕れると伝えられています。
・以前は旧暦の11月17日、18日に行われていましたが、が現在は11月21日~23日に 行なわれています。
祭りの一番のヤマ場となるのは2隻のチ ヨロ船による競漕で、 これは23日の午後3時頃より始まります。
前日にはこの行事に必要な供え物である小舟作りが大老会 により村社で行なわれ、
祭は22日の小舟作り(殿入祭)と23日の競漕神事の2つに分けられ、そしてこの2つを合わ せて二船祭と称しています。
■11月21日 万度迎え
二船祭に先だって、伊勢神宮からのお札を受けに行くことが、二船祭事はじめの意味で行われており、村より選出された男2人が行き、午前11時までに帰 村しなければならないことになっています。
■11月22日 小舟作り(殿入祭)
この祭りは本来風の宮社、白髪大明神社の祭日に行われていました。これら2社 を含め合祀して村社となった海士潜女神社に大老が集まり、ミズの木(ヤシャブ シ)で48隻の小舟(15センチ)と2隻のオオフネ(45センチ)、それにミズの木の枝 12本に榊を添えて「シゲ」と呼ばれる葉たばをつくります。このシゲは閏年には普 段の年の12本に対し1本多い13本の枝をもって作るといいます。又2隻のオオフネ と48隻の小舟は文永·弘安の役である蒙古襲来における中国の船とそれをむか え打つ日本の小舟を模しているといわれ、2隻のオオフネが中国船、48隻の小 船が日本船といわれています。オオフネの作り方はミズの木で船体を作り、それに水押をつけ全長43センチ程にし、それに船尾より16センチの位置に船体と同じ長さの 帆柱を立て、椎皮を12枚すだれ状につないだものを帆としてそれに張ります。後部 には鳥居型の車立が設けられ、櫂2丁が 字状に縛りつけられます。更にオオフネには1隻に1本、木で作った刀がのせられます。こうして作られたオオフネは 昔は村社と白髪大明神へ供えられましたが、合祀され白髪大明神がなくなってから、舟 みよし 隻は希望者に拝受することになっています。又、材料となるミズの木を切りに 行く時には、途中不幸事のあった家の人などに会ってはいけないとされています。
23日の午後3時頃より始まる祭りの一番のヤマ場となる2隻のチ ヨロ船による競漕を前に、午前10時より、海士潜女神社にて二舟祭りの祭典が行われます。前日に作られた2隻のオオフネは大エビ2尾、白餅一重ねを入れたユリとともに神前に供えられます。
■11月23日 競漕神事について
競漕神事の用意は昼過ぎより行われ、先ず競技に使う2隻のチョロ船を洗 い、それに櫂手4人の座席と櫂を藁束でしばり作ります。そしていよいよ午後3時 頃より競漕が行なわれます。
·船祭の中で一番盛況な場面であり、クライマックスであります。これは国崎の 村を里谷と海問谷とに分け、それぞれの谷より選出された若者5人ずつが前の 浜にてチョロ船の競漕をするものです。
午後2時前、里谷の舵手との櫂は海士潜女神社へ御神酒を受け取りに行きます。 里谷の船が出発し、隣村の相差境にある「神の島」と呼ばれる岩礁地へと船で 出向きます。 以前は、
後より海問谷の船も出発し、村入口近くでの大津浜にある宝剣島を 周しました。近距離を一周する海問谷の船は途中海藻貝類の繁殖を祈りお酒を磯 ごとに注ぎ、里谷の船が戻ってくると合流して前の浜へ戻ってきます。 各谷より選出された櫂手4人と舵手1人の合計5人ずつ(里谷は舵手と一の 櫂以外の3人)が浜に集まり、海に入って垢離を取り身を清めます。そして新し いさらしで褌をします。服装は谷によって異なり、里谷は黒で「里」と染め抜い たものを、海問谷は櫂を「X」に合わせた図が染め抜かれたものを着用し、帯 にはスガイと呼ばれる藁縄が用いられます。 里谷の舵手と一の櫂が前の浜へ帰ってくると、村中の人々が見守る中、湾内 で激しく競漕します。一度競技が終わると再び湾口まで行って並びそこから又競 漕し、これらを何回となくくり返していきます。見守る観衆も両谷に分かれ、共に自分の 谷の船を大声をあげて応援し、酒も入って両者の口喧嘩は大変なものでした。 昔は興奮してくると石を投げたりつかみ合いになったりしてケガ人まで出し 「喧嘩祭」とも呼ばれた程だといいます。「うちこめ」の声があがると、いよいよ最 後の戦いとなります。この祭りで里谷が勝つとその年はボラが大漁で、海間谷が勝 っとイワシが大漁と、その年の漁の吉凶を占いました。